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英語教育

英語教育の目的は「バイリンガルに育てること」ではなく「子供の可能性を広げること」

こんにちは、Mayukoの夫です。

アメリカに住み始めて1年が経過し、その生活の中で子供の教育について考える時間が増えました。私自身、子供を通じてアメリカの文化や教育に触れ、自分が受けていた教育と比較して考えるようになったことが、その理由だと思います。

そして、ソーシャルメディアやブログを通じて、「子育て」「英語教育」「バイリンガル教育」「おうち英語」といった情報をたくさん目にして、他のご家庭も色々やってるんだなあ、自分たちはどういうスタンスで教育や英語と向き合っていくべきか、とよく考えます。

そこで本日は、この1年で考えた子供の英語教育、英語の読み書きなどについての自分なり考えをまとめてみたいと思います。

「子供をバイリンガルに育てること」を英語教育の目的とはしない。

なぜ英語を学んだ方が良いのか。

それはひとえに英語により子供の将来の可能性が広がることが明らかだからです。(近年のテクノロジーの発達を見ると、英語をうまく操ることが今後どの程度有益となるかはわかりませんが、少なくとも現時点では可能性を広げるという意味においては英語の重要性は明らかです。)

可能性を広げるという点では、同時に他文化にもたくさん触れるのが望ましいと思います。(そのようなことを考えて一年くらい前に書いた記事です↓)

英語は、子供達が可能性を広げるための手段であって、目的ではありません。このことを最近よく意識するようになりました。

子供たちが幸せになる手段は英語の他にもたくさんあって、英語はその中の一つ。そして別に「バイリンガル」でなくとも、英語に関して言えば、「英語がかなり得意」であればいいわけです。ですので妻も私もあまり「バイリンガル」ということは意識しませんし、「バイリンガル」という言葉自体あまり使いません。

バイリンガル、または英語がすごく得意であったとしても、子供が幸せな人生を送れるのかというと、そうではありません。子供達が楽しく安心して日々を暮らし、自己を肯定することができるようになる、そのような環境を目指していきたいと思います。




「多様性」「個性を伸ばす」を実現しようとすると、英語が重要な手段となってくる。

自分は日本の田舎の公立小中学校で育ちましたが、今アメリカ生活を経験した上で振り返ってみると、日本の小中学校ではいわゆる「同調圧力」が強かったなと感じます。

「目立ったら潰される」ようなことも勿論あったと思いますが、それだけでなく、皆が同じ髪の色、同じ肌の色、同じ服装、常に整列、集団行動など、日々の基本的な活動に「同調」「規律」「はみ出したものは罰する」というルールが植え付けられていました。これは、違う文化を経験して、より実感しました。

我が家の息子の通うプリスクールでは、アメリカ人が多い印象ですが、アメリカ人であってもその出自の人種が違うので、肌の色、目の色、髪の色、服装、宗教がそもそも違います。当たり前ですが、これを問題視する人はいません。日本では今なお「学生らしい髪型と服装」という言葉を聞きますが、こういうものは存在しないわけです。娘のクラスの先生に至っては、髪の色を紫に染め、鼻ピアスをしています。

また、アメリカの教育に通底している考え方として、「教育現場で『いい子』を定めない」というものがある気がします。私の日本での経験上、教師は「規律をよく守る子」を「いい子」としてクラスの模範とし、それに倣うように指導するということがしばしばありました。一人一人の個性を伸ばす、という考え方があまりなく、規範に当てはめていく、という考え方が大勢ですよね。

これらの日本の伝統的、文化的ルールにも勿論良い点はたくさんあるのも理解していますが、時代遅れである、とも思います。上から与えられる規律をよく遵守する子が、これからの変化の早い時代において、主体的に物事を判断していけるでしょうか。

こういった同調圧力をキャンセルする最も簡単な方法が、「他人種がいる集団に子供を放り込む」ことですが、そうするとそこで使用される言語は英語である確率が高いわけです。結果、こういうことを望むのであれば、英語をうまく操ることが重要になってきます。

できれば将来、子供には再度このような環境で過ごして欲しいと思います。




英語が好きでさえあれば、英語の読み書きは絶対に後でできるようになる。

4歳とか5歳で、英検●級に合格した、などの情報を目にします。これ自体は驚くべきことですし、素晴らしいことです。

そういう情報を目にすると、自分の子にも読み書き(少なくとも英語の読み)を教えた方がいいのではないか、という気持ちになります。

しかし、よくよく考えてみると、我が家の子供が行っているプリスクールの英語ネイティブの5歳の子供たちは、アルファベットを大して書けませんし、読めもしません。

また、自分を顧みても、英語の読み書きは、自分の努力で上達します。なんなら従来の受験英語でもかなりのレベルに到達すると思います。英検も、2級くらいまでなら、努力すればいずれは誰でも受かります。(そして、英検が役に立ったことは私の人生ではありません。)

よって、英語の読み書きは、子供が興味を持ってから、もう少し大きくなってからでいいかな、と思うようになりました。逆に言えば、子供が早いうちから興味を持つのであれば、そういう子には読み書きもやらせれば良いように思います。(我が家の子供はまだあまり読み書きには興味を示しません。流石に少しずつ文字は認識してきてはいますが。)

なので、子供が小さいうちは、可能な限り英語を話すことと聞くことの機会を提供できればと思います。そして、英語はコミュニケーションツールであって、習得すればより世界が楽しくなるということを体感させられると良いと考えています。




絵本の字もまだ読めなくていい。

我が家の子供達には毎晩絵本を読み聞かせていますが、あるとき私は、妻に、「本を自分で読めるようになることで世界が広がるのだから、早いうちに字を読めるようにした方がいいんじゃない?」と言ったことがあります。

妻は、「字が読めるようになると、字を追うようになってしまって、絵をよく見て想像することが少なくなるのではないか」というようなことを言いました。

それはなるほど、と思いました。

子供たちは絵本が好きで、字が読めなくともパラパラと本をめくってよく読んでいます。絵を見て、色々なストーリーを自分の頭の中で想像しているのではないでしょうか。それって素晴らしいですよね。

私は映画を見ても字幕をすぐ読んでしまいますし、本を読んでも字をすぐに読んでしまいます。そうやって聞く力や想像する力を劣化させてきた気がします。

また、子供達は、字が読めないのに、英語、日本語にかかわらず、本によっては内容を暗記して暗唱しています。面白かったのが、息子に、日本語で書かれた絵本を渡し、「これ妹に読んであげて〜」と言ったら、英語で読み始めたことです。彼はストーリーを暗記しており、それを表現したところ、英語になった、というところだと思います。字が読めないことにより、彼らは大人とは違う力を使って絵本を読んでいる気がします。

日本語でも英語でも、大きくなって多少勉強すればそのうち必ず読めるようになります(障がいがなければ)。今後の人生の大半を字を読んで過ごすことになるはずなので、今の時点で慌てて字を読めるようにしなくてもいいな、と思います。




まとめ

以上が、この1年半を通じて私の中で培われた小さい子供に対する英語教育への基本的なスタンスです。教育の究極的な目的は、子供が幸せな毎日を送り、幸せな人生を送ることです。その中に英語教育も位置付けられていければいいと思います。

次回は、「日本へ帰国後、子供をインターナショナルスクールへ入れるのか問題」について書きたいと思います。

 

 

 

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